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今回の株価変動で感じたこと(1)

未分類
2008.10.31
 リーマンブラザーズの破綻から、株価が乱高下してますね。2008年6月頃には14000円程度だった日経平均株価も、先日7000円近くまで下がり、また9000円くらいまで上がっています。すでに保有していた株価が下落して痛い思いをしている方にとっては、まさに「暴落」という表現がぴったりなのかもしれません。

 でも個人的には今回の株価の動きを「面白いものだなあ」と思いながら眺めています。もちろん私が保有していた株も大きく値を下げていますが、ここまで株式市場全体が低迷すると、新たに株を買い増すチャンスでもあります。キャッチコピーを付けるとすると「リーマン破綻!半額大セール!」といったところでしょうか。日本だけではなく世界中の企業が、まさにバーゲン価格で売り出されているわけです。

 結局のところキャピタルゲイン狙いの投資は、純粋な意味での「投資」ではなく、どこかしら「投機」の色合いを含んでいます。「投機」は結局のところ博打の一種であり、勝つときもあれば負けるときもあります。ある程度のキャッシュさえ持っていれば、誰でも参加できる「ゲーム」なのです。

 また投機というものは、手持ちの資産の形を変換する作業に過ぎない、と定義することもできます。例えば株を購入するということは、「キャッシュ」という右手の上から、「株式」という左手の上に、「資産」というボールを移し替えることです。右手と左手の大きさは株式市場の動向によって、相対的に変化します。左手に資産を移した後に左手が右手より大きくなれば、その上の資産も一緒に大きくなる。私はそんなイメージをもっています。

 もちろん資産の形はキャッシュと現金だけではありません。債権とか外貨とか不動産とか金とか、他にもいくつかの形が考えられます。結局のところ、これらの複数の手の上で資産をお手玉しながら、どれだけ資産というボールを大きくできるのか。これが投機というゲームなのでしょう。

 このように考えると、今は多くのプレイヤーが、資産を「キャッシュ」という手のひらに載せ替えている状況だといえます。世界的に株価が下がり、原油価格も下がり、不動産価格も下がりつつあります。日本の株価が下がっているのに円高が進んだのも、多くのプレイヤーが投機の選択肢として、ドルや円というキャッシュの枠からはみ出しにくいからだといえます。

 このような状況では、株価はちょっとしたことでも、大きく変動する傾向を持つと思います。投機を行うプレイヤーにとって、いつまでも資産を右手(キャッシュ)の上に置き続けるのは得策ではないからです。異なる通貨間で資産を移動しても、キャピタルゲインはたかが知れています。きっかけがあれば左手(株式)の上に資産を移したい、でもそのきっかけがなかなかつかめない、というのが、多くの投機家の本音ではないでしょうか。

 最近のフォルクスワーゲンの値動きを見ても、この心理が読みとれます。ポルシェによる買収の話が出た後一気に株価が上昇し、その後また一気に下落しています。これからしばらくの間は、このような値動きをする株がいくつも登場するような気がします。

 いずれにしても投機には、常に運の要素が残ります。儲けようと思って参加したのであれば、損をするのも自己責任です。株式を売買する時には、常にこのことを意識すべきです。

 でも株価下落で銀行の自己資本率が下がり、貸し渋りや貸しはがしが起きるのは、ちょっと困りものですね。銀行として安定した機能を提供するには、銀行の株式保有は、やはり制限すべきではないかと感じています。直接金融と間接金融が相互に補完的な役割を果たすようにするには、どのような取り組みが必要なのか。これは金融業界が社会的責務を果たす上で、重要な課題になると思います。「晴れの日には傘を貸してくれるのに、雨が降ると傘を持っていってしまう」と言われないためにもね。

 なおここに書かれていることに基づいて行動を起こしたとしても、その結果について当方は一切関知いたしません。当たり前のことですけど、念のため。
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年月日を明記して

未分類
2008.10.17
前回、ネット上のナレッジは「時間を超越すること」ことと、これがナレッジ活用の可能性を広げる上で重要であることを指摘しました。ここで重要になるのが、ネット上に存在するナレッジが「いつ作成されたのか」という情報です。ナレッジが作成された時期によって、その使い道が変わってしまうことも珍しくないからです。

数年前までは、この点に無自覚なサイトがけっこう多かったように思います。特によく見かけたのが「○月○日」の表記があるのに、それが何年なのかが記載されていない、というものです。最近ではずいぶん少なくなったようですが、ググッてみると今でも、日付だけで年の記述が入っていないコンテンツはけっこうあります。ひどいのになると、結構有名なサイトの記事なのに、日付そのものが見あたらないこともあります。せっかくいい内容なのに、日付がないだけで、ナレッジとしての価値は大きく下がってしまいます。

それから年の表記を元号で表記しているコンテンツもあります。例えば役所関係のリリース。一見すると問題なさそうに見えるのですが、これは一貫性を損なうことになると思います。なぜかというと、元号では未来を表現することが、原理的に不可能だからです。

元号というものは皇位継承で変更されてしまうものです。今年が「平成」だからといって、来年も「平成」とは限らない。極端な話をすれば、明日の元号だって「平成」とは限らないのです。つまり今日までの日付は元号が確定していますが、未来の元号はそのときになってみないとわからないわけです。

例えば「経済動向の予測」のような「未来の内容を含むリリース」は、その内容を元号で記述することはできないはずです。リリース日付は元号で表記しながら、その内容には西暦を使うという、使い分けが必要になるわけです。これはどう考えても一貫性を損なう対応だと思うのです。まあ、実際の政府関係のリリースを見てみると、未来の日付を元号で表記しているものもあれば、西暦で表記しているものもあります。リリース日付は元号で統一されていますが、リリース内容をどのように表記するかについては、意見が分かれているのでしょうね。

でも「改正省エネ法、平成21年4月に適用」とか書いてあると、ちょっと違和感を感じます。だって「2050年までに二酸化炭素を70%削減・・・」という場合、「平成62年までに・・・」とは(たぶん)書かないでしょう?でも実際に「平成62年」でググってみると、「平成62年」と記述しているサイトって、けっこうあるんですね。これを書いた人は、本当に「平成62年」があり得ると思っているのだろうか。「平成62年があるとは考えにくい」と考えることは、不敬なことなのでしょうか。

いえいえ、問題はそういうことではありません。「平成62年が存在するか否か」が問題ではないのです。「論理的にあり得るかどうか未確定なものを、あたかも確定しているかのように記述する」ことに、違和感を感じてしまうのです。「日本人なんだから元号を使うべき」という方や、「そんなのどうでもいいじゃん」という方もいると思います。でもコンテンツをナレッジとして活かすには、一貫性は重要だと思うんです。

ちょっと元号の話が長くなってしまいましたが、ネット上のコンテンツには年も含めた日付を付けてほしいなあ、できれば西暦だといいんだけどなあ、という話でした。もちろんあくまでも、ささやかで個人的な希望です。本当に。

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タイミング、だいじな。

未分類
2008.10.10
「よつばと!」風のタイトルで始めてしまいましたが、今回のテーマはナレッジについてです。日本語にすると「知識」とか「知恵」といった感じのもので、「情報」よりもちょっとレベルが上、といったイメージですよね。

ここ数回のエントリーで書いたように、私は今後、ほとんどのナレッジがネット上に乗ってくると思っています。これまで雑誌や書籍といった紙媒体で流通していたナレッジが、ネット上で流通するようになる。これに関しては、別に目新しい指摘でもないでしょう。すでに多くの方が指摘していると思います。

なぜナレッジがネット上に乗ってくるのか。その必然性は何なのか。それはネット上に乗ることで、ナレッジの価値が著しく高まる可能性があるからです。もちろん今の段階ではあくまでも「可能性」なのですが、この可能性が具現化するのは時間の問題のはずです。

それではナレッジの価値というものが、何によって高まるのか。それはタイミングです。

利用者から見てナレッジが価値を持つのは、そのナレッジを必要としたタイミングで入手できることです。必要ないときにナレッジが提示されても、その人にとってそのナレッジは無価値です。いくら素晴らしいナレッジを提供していても、それを受け取る人の状況によって、価値が生まれたり生まれなかったりするわけです。簡単な式で表すと、次のようになるでしょうか。

ナレッジの価値=ナレッジそのものの価値×受け取るタイミング

紙媒体の最大の問題点は、利用者が必要としたタイミングで、ナレッジを提供することが難しいことです。例えば雑誌であれば、最新号の記事内容が読者の興味と合致すれば、ナレッジとしての価値が出てきます。しかし最近では、このような絶妙なタイミングでナレッジを提供することは難しくなっている。それは読者個々人のナレッジに対するニーズというものが、どんどん多様化しているからです。興味の対象も多様化していれば、興味をもつタイミングも多様化している。このような状況の中で、雑誌のように画一的なタイミングでナレッジを提供する手法は、時代遅れになるのが当然です。

「雑誌よりも長期的に販売されている書籍なら、そういう問題も少ないのでは」という意見もあると思います。しかし物理媒体に依存していることからくる弱点は、解消できません。

まず絶版という問題があります。物理的な商品である以上、出版社が「これはもう売れない」と判断した時点で、流通がストップします。また絶版になっていない書籍でも、それほど売れていないものは、入手までにかなりの時間がかかることがあります。

過去のナレッジを得たい場合、絶版というのはかなり大きな問題です。でも印刷コストや在庫コストなどを考えれば、売れ行きが悪い商品をラインからはずすのは、企業として当たり前の行動です。物理的なコストが必要な商品である限り、絶版はなくならないのです。むしろ絶版にならずに出版され続ける書籍の方が、例外的存在だと考えるべきでしょう。

つまり物理的媒体に依存している限り、ナレッジが求められるタイミングでそのナレッジを提供することは、簡単ではないのです。現在の出版モデルは、大多数の読者がほぼ同じタイミングで、同じようなことに興味を示すという、いわば「マスモデル」に基づいて構築されています。しかし興味の対象が多様化し、ナレッジを求めるタイミングも多様化すれば、出版モデルというものが崩壊するのは時間の問題ではないかと思うのです。

そこでネットの登場です。ネット上にコンテンツを掲載しておけば、限りなくゼロに近いコストで長期間提供し続けることができます。つまり「ナレッジを作成・提供するタイミング」と「ナレッジが求められるタイミング」の間を、極めて低いコストで埋めることができるわけです。ネットの効用としては、世界のどこからでもアクセスできるという「空間の超越」も重要ですが、ナレッジ活用を考えた場合には、それ以上に「時間の超越」も重要です。

ただし、現在のネットには大きな問題があります。あまりにも膨大なコンテンツがネット上に存在するため、自分が本当に必要とするナレッジにたどり着くまでに、時間と労力がかかってしまうということです。Google等の検索エンジンは、この課題に対するひとつの道を開きました。しかしまだ十分とは言えません。シグナル(目的のナレッジ)に対してノイズ(不要な情報)が多すぎます。つまりS/N比が悪すぎるのです。

これもいろいろなところで指摘されていますが、人間の情報処理能力には限界(認知限界)があり、現在のネットでナレッジを得ようとすると、認知限界を超えてしまうことが珍しくありません。ネット上に価値のあるナレッジが存在していても、そこに到達するまでにユーザーの能力が限界に達してしまうという、以前なら考えられないことが起こるわけです。

ではどうすればいいのか。必要なのはS/N比を高めることです。

十分に高いS/N比が実現できれば、人間と知識の関係は、大きく変わっていくのではないか。すでにネットは人間の「外部記憶装置」としての役割を果たしていますが(忘れたらググればいい!)、今後は「外部思考回路」としての役割を担う可能性が出てくるのではないか。その結果人類は、新しい進化の段階に入っていくのではないか。

ちょっと荒唐無稽かもしれませんが、そんなことを考えています。問題はこれを、どのような手法で実現するかなのです。

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不思議な商品

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2008.10.04
ややや、またしてもご無沙汰です。気がついたら前回のエントリーから3週間以上経っていました。

最近時間が経つのがとても速い。気がつくと1日なんてあっというまに過ぎてしまいますし、あれあれというまに1週間、2週間が経過しています。たぶん好きなことをやっているせいでしょうね。仕事ももちろんボチボチとやっているのですが、取材や打ち合わせがなくて晴れている日は、自転車で30~50kmほど走っています。だいたい週に2回くらいのペースですね。その他の時間のほとんどはプログラミングに没頭しています。実は9月に入ってから独自のPHPフレームワークを作っており、オブジェクト指向のパワフルさを楽しんでいます。でもまあ、この話は別の機会に。

で、前回の続きなんですが、書籍の未来の話です。実際にどうなるかは本当に「神のみぞ知る」なのですが「書籍の利用者自らが代金を支払う商品」としての未来は、けっこう暗いのではないかと思っています。つまり、コンテンツを書籍という形態で販売するビジネスは、どんどん衰退するのではないかと考えているのです。

もちろん書籍の市場が短期間でゼロになることはないと思います。また一部のコンテンツは今後も長期にわたって、書籍という形態で流通するのが最適だとも考えています。しかし現在書籍の形で流通しているコンテンツの多くが、将来は書籍としては売れなくなる時代がくるような気がします。

なぜそう思うのか。そのひとつの理由は、書籍というものが、商品として不合理な存在だからです。

一般的な商品では多くの場合、購入者はその商品の「価値」をあるていど評価してから購入します。もちろん使ってみないと善し悪しがわからない商品も少なくありませんが、一般消費財はその商品をリピート購入するか否かを自分で判断できますし、耐久消費財でも機能やスペックなど、商品の中身を吟味できます。

しかし書籍の場合、その購入には常に「博打」の要素がつきまといます。購入した書籍の中身に価値があるかどうかは、結局のところ読んだ後でないと判断できないのです。しかもほとんどの書籍は、その価値が判断できた時点(つまり読了後)には、再度購入する必要はなくなっています。つまりユーザーがその価値を評価した時点で、その書籍の「商品としての価値」は失われているわけです。

だって一度読んだ本がいくら価値があるものでも、同じ本を2度、3度買うことってないでしょう?ひょっとしたらそういうことをする人もいるのかもしれないし、私の本棚にもなぜか同じ本が2冊あったりします。でも私の場合はリピート購入ではなくて、以前読んだことを忘れて買ってしまうんですよね。しかも面白くない本に限って記憶がなくなっている。バカバカしい限りです。

つまり書籍って、中身を吟味する前に買う必要があり、どんなに素晴らしいものでも1回しか消費できないという、とても不思議な商品だというわけです。

私自身、これまで購入した書籍の中で、アタリに巡り会えたのは1~2割といったところです。「もう一度じっくりと読み返してみよう」と思えたものは、1割にも満たないかもしれません。もちろん私はそれでも構わないと思っているので、懲りもせずに書籍を買い続けています。問題は「価値がある」と思えた一冊も、「なんだこれダメじゃん」と感じた一冊も、商品に対して支出する金額はそれほど変わらないということです。優れた本にも1回しか代金を支払わないし、ダメな本にも1回は代金を支払っている。これが一般消費財なら、リピート購入という方法で、提供者に利益を渡せるのですが、書籍ではそうはいかない。芝居や映画だって、面白いものは複数回見に行くことができます。でも書籍は原理的にそれができない。

このような特性は、市場原理が適切に働かない、という結果を生むような気がします。そもそも商品を購入するという行為は、その商品の価値を評価したという、一種の投票行為としての側面を持っています。一般的な商品はこの「投票行為としての購入行為」が成立するのですが、書籍の場合にはこれが成立しないのです。もちろん特定の作家や特定の出版社のファンになって、その人/会社の書籍をリピート購入するという方法もあります。私にも「この人の新刊が出たら必ず買う」という作家は何人かいます。でもやっぱり、購入が博打になるケースの方が圧倒的に多い。

最近は「書籍のタイトルによって売上が大きく左右される」という指摘もあります。これはいったい何を意味しているのか。よく考えれば「商品としての書籍」というものの本質、その不完全さが理解できます。「最近はつまらない本がベストセラーになっている」とか「本当に価値のある本が売れなくなっている」といった議論もあるようですが(そんな論説だか批評をどこかで聞いたような気がする。空耳かもしれませんが)、これは商品としての書籍の本質からすれば、当然の流れなのではないかと思うのです。

たぶん、愛蔵版のコミックスや美術書、装丁に凝った書籍などは、書籍という「マテリアル感」が重要なので、書籍として存在すべきだと思います。また一部の新書や文庫本のように「気軽に楽しむ」書籍のケースでも、ポータビリティの高い書籍は「暇つぶし」という役割を担うことができます。でもコンテンツそのものが価値である場合、特に知識や知恵(ナレッジ)の提供が目的の書籍の場合には、書籍という商品形態は難しくなっていくのではないか。それではこれらのコンテンツはどこに行くのか。たぶんネットなんでしょう。

もちろんベストセラーになる書籍はこれからもなくならないと思う。でも書籍の形態で流通するナレッジの裾野は、どんどん狭くなっていくような気がします。つまり書籍の世界は、ベストセラーを出せる限られた執筆者と、その執筆者を押さえた一部の出版社だけで構成される、狭いサークルになっていくのではないか。

すでに雑誌市場の縮小によって、執筆活動でメシを食う道はかなり狭くなっているはずです。パソコン雑誌が一気に減った時には、パソコンライターの多くが職を変えていきましたが、それと同じことが大規模に起こっているような気がします。執筆者として生計を立てる上で、雑誌の存在は極めて大きなものです。雑誌の市場が消失すれば、安定的な収入を得ることが難しくなり、執筆者の裾野も狭くなっていきます。このような周辺状況も「商品としての書籍」の世界に、大きなインパクトを与えそうです。

そもそも執筆者にとって、数千~数万部程度しか売れない書籍を書くことは、経済的な観点からみれば「そろばんが合わない」話なんです。実は私もこれまで専門書を3冊執筆していますが、費やした時間の長さを考えると、印税の時間単価なんてごくわずかです。コンビニでアルバイトしていた方が、間違いなく時給は高い。その程度のものです。まあ、売れない本を書いちゃったんだから、仕方ないんですけどね。でも書くべきことを持っている場合には、その知識なり情報なりを、何らかの形で発信したいというのは、人間の本能のような気がします。それにこれは私の偏見かもしれませんが、他の人にとって価値のある情報や知識を持っている人というのは、たいていの場合その分野でメシが食えているので、書籍出版でメシを食う必要はなかったりします。

だからこそカネにならなくても本を出したいという人が、これまでにも数多くいたわけです。そういう人はこれからも数多く出てくるでしょう。でも今はネットで簡単に情報や知識を発信できます。こちらの方が書籍出版よりも、はるかに低コストでリスクも少ない。とすれば出版だけではメシが食えない、あるいはその必要がない執筆者は、必然的にネットに流れていくことになるでしょう。

すでにネット上には様々なコンテンツがあります。あふれかえっているといってもいいと思う。しかもその中身は玉石混交で「石の方が圧倒的に多い」という指摘もあります。情報の絶対量が増えれば、石の比率が高まるのは仕方ありません。でも玉の量だって、確実に増えています。問題は数多くの玉が、絶対量では玉よりもはるかに多い(のかもしれない)石の中に埋もれてしまうということです。

この問題を解決できる手段があれば、ネットはナレッジの宝庫として、もっと価値のあるものになるような気がします。そして現在の書籍流通のかなりの部分を、ネットが代替する時代がやってくると思うのです。

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