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年月日を明記して

未分類
2008.10.17
前回、ネット上のナレッジは「時間を超越すること」ことと、これがナレッジ活用の可能性を広げる上で重要であることを指摘しました。ここで重要になるのが、ネット上に存在するナレッジが「いつ作成されたのか」という情報です。ナレッジが作成された時期によって、その使い道が変わってしまうことも珍しくないからです。

数年前までは、この点に無自覚なサイトがけっこう多かったように思います。特によく見かけたのが「○月○日」の表記があるのに、それが何年なのかが記載されていない、というものです。最近ではずいぶん少なくなったようですが、ググッてみると今でも、日付だけで年の記述が入っていないコンテンツはけっこうあります。ひどいのになると、結構有名なサイトの記事なのに、日付そのものが見あたらないこともあります。せっかくいい内容なのに、日付がないだけで、ナレッジとしての価値は大きく下がってしまいます。

それから年の表記を元号で表記しているコンテンツもあります。例えば役所関係のリリース。一見すると問題なさそうに見えるのですが、これは一貫性を損なうことになると思います。なぜかというと、元号では未来を表現することが、原理的に不可能だからです。

元号というものは皇位継承で変更されてしまうものです。今年が「平成」だからといって、来年も「平成」とは限らない。極端な話をすれば、明日の元号だって「平成」とは限らないのです。つまり今日までの日付は元号が確定していますが、未来の元号はそのときになってみないとわからないわけです。

例えば「経済動向の予測」のような「未来の内容を含むリリース」は、その内容を元号で記述することはできないはずです。リリース日付は元号で表記しながら、その内容には西暦を使うという、使い分けが必要になるわけです。これはどう考えても一貫性を損なう対応だと思うのです。まあ、実際の政府関係のリリースを見てみると、未来の日付を元号で表記しているものもあれば、西暦で表記しているものもあります。リリース日付は元号で統一されていますが、リリース内容をどのように表記するかについては、意見が分かれているのでしょうね。

でも「改正省エネ法、平成21年4月に適用」とか書いてあると、ちょっと違和感を感じます。だって「2050年までに二酸化炭素を70%削減・・・」という場合、「平成62年までに・・・」とは(たぶん)書かないでしょう?でも実際に「平成62年」でググってみると、「平成62年」と記述しているサイトって、けっこうあるんですね。これを書いた人は、本当に「平成62年」があり得ると思っているのだろうか。「平成62年があるとは考えにくい」と考えることは、不敬なことなのでしょうか。

いえいえ、問題はそういうことではありません。「平成62年が存在するか否か」が問題ではないのです。「論理的にあり得るかどうか未確定なものを、あたかも確定しているかのように記述する」ことに、違和感を感じてしまうのです。「日本人なんだから元号を使うべき」という方や、「そんなのどうでもいいじゃん」という方もいると思います。でもコンテンツをナレッジとして活かすには、一貫性は重要だと思うんです。

ちょっと元号の話が長くなってしまいましたが、ネット上のコンテンツには年も含めた日付を付けてほしいなあ、できれば西暦だといいんだけどなあ、という話でした。もちろんあくまでも、ささやかで個人的な希望です。本当に。

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タイミング、だいじな。

未分類
2008.10.10
「よつばと!」風のタイトルで始めてしまいましたが、今回のテーマはナレッジについてです。日本語にすると「知識」とか「知恵」といった感じのもので、「情報」よりもちょっとレベルが上、といったイメージですよね。

ここ数回のエントリーで書いたように、私は今後、ほとんどのナレッジがネット上に乗ってくると思っています。これまで雑誌や書籍といった紙媒体で流通していたナレッジが、ネット上で流通するようになる。これに関しては、別に目新しい指摘でもないでしょう。すでに多くの方が指摘していると思います。

なぜナレッジがネット上に乗ってくるのか。その必然性は何なのか。それはネット上に乗ることで、ナレッジの価値が著しく高まる可能性があるからです。もちろん今の段階ではあくまでも「可能性」なのですが、この可能性が具現化するのは時間の問題のはずです。

それではナレッジの価値というものが、何によって高まるのか。それはタイミングです。

利用者から見てナレッジが価値を持つのは、そのナレッジを必要としたタイミングで入手できることです。必要ないときにナレッジが提示されても、その人にとってそのナレッジは無価値です。いくら素晴らしいナレッジを提供していても、それを受け取る人の状況によって、価値が生まれたり生まれなかったりするわけです。簡単な式で表すと、次のようになるでしょうか。

ナレッジの価値=ナレッジそのものの価値×受け取るタイミング

紙媒体の最大の問題点は、利用者が必要としたタイミングで、ナレッジを提供することが難しいことです。例えば雑誌であれば、最新号の記事内容が読者の興味と合致すれば、ナレッジとしての価値が出てきます。しかし最近では、このような絶妙なタイミングでナレッジを提供することは難しくなっている。それは読者個々人のナレッジに対するニーズというものが、どんどん多様化しているからです。興味の対象も多様化していれば、興味をもつタイミングも多様化している。このような状況の中で、雑誌のように画一的なタイミングでナレッジを提供する手法は、時代遅れになるのが当然です。

「雑誌よりも長期的に販売されている書籍なら、そういう問題も少ないのでは」という意見もあると思います。しかし物理媒体に依存していることからくる弱点は、解消できません。

まず絶版という問題があります。物理的な商品である以上、出版社が「これはもう売れない」と判断した時点で、流通がストップします。また絶版になっていない書籍でも、それほど売れていないものは、入手までにかなりの時間がかかることがあります。

過去のナレッジを得たい場合、絶版というのはかなり大きな問題です。でも印刷コストや在庫コストなどを考えれば、売れ行きが悪い商品をラインからはずすのは、企業として当たり前の行動です。物理的なコストが必要な商品である限り、絶版はなくならないのです。むしろ絶版にならずに出版され続ける書籍の方が、例外的存在だと考えるべきでしょう。

つまり物理的媒体に依存している限り、ナレッジが求められるタイミングでそのナレッジを提供することは、簡単ではないのです。現在の出版モデルは、大多数の読者がほぼ同じタイミングで、同じようなことに興味を示すという、いわば「マスモデル」に基づいて構築されています。しかし興味の対象が多様化し、ナレッジを求めるタイミングも多様化すれば、出版モデルというものが崩壊するのは時間の問題ではないかと思うのです。

そこでネットの登場です。ネット上にコンテンツを掲載しておけば、限りなくゼロに近いコストで長期間提供し続けることができます。つまり「ナレッジを作成・提供するタイミング」と「ナレッジが求められるタイミング」の間を、極めて低いコストで埋めることができるわけです。ネットの効用としては、世界のどこからでもアクセスできるという「空間の超越」も重要ですが、ナレッジ活用を考えた場合には、それ以上に「時間の超越」も重要です。

ただし、現在のネットには大きな問題があります。あまりにも膨大なコンテンツがネット上に存在するため、自分が本当に必要とするナレッジにたどり着くまでに、時間と労力がかかってしまうということです。Google等の検索エンジンは、この課題に対するひとつの道を開きました。しかしまだ十分とは言えません。シグナル(目的のナレッジ)に対してノイズ(不要な情報)が多すぎます。つまりS/N比が悪すぎるのです。

これもいろいろなところで指摘されていますが、人間の情報処理能力には限界(認知限界)があり、現在のネットでナレッジを得ようとすると、認知限界を超えてしまうことが珍しくありません。ネット上に価値のあるナレッジが存在していても、そこに到達するまでにユーザーの能力が限界に達してしまうという、以前なら考えられないことが起こるわけです。

ではどうすればいいのか。必要なのはS/N比を高めることです。

十分に高いS/N比が実現できれば、人間と知識の関係は、大きく変わっていくのではないか。すでにネットは人間の「外部記憶装置」としての役割を果たしていますが(忘れたらググればいい!)、今後は「外部思考回路」としての役割を担う可能性が出てくるのではないか。その結果人類は、新しい進化の段階に入っていくのではないか。

ちょっと荒唐無稽かもしれませんが、そんなことを考えています。問題はこれを、どのような手法で実現するかなのです。

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不思議な商品

未分類
2008.10.04
ややや、またしてもご無沙汰です。気がついたら前回のエントリーから3週間以上経っていました。

最近時間が経つのがとても速い。気がつくと1日なんてあっというまに過ぎてしまいますし、あれあれというまに1週間、2週間が経過しています。たぶん好きなことをやっているせいでしょうね。仕事ももちろんボチボチとやっているのですが、取材や打ち合わせがなくて晴れている日は、自転車で30~50kmほど走っています。だいたい週に2回くらいのペースですね。その他の時間のほとんどはプログラミングに没頭しています。実は9月に入ってから独自のPHPフレームワークを作っており、オブジェクト指向のパワフルさを楽しんでいます。でもまあ、この話は別の機会に。

で、前回の続きなんですが、書籍の未来の話です。実際にどうなるかは本当に「神のみぞ知る」なのですが「書籍の利用者自らが代金を支払う商品」としての未来は、けっこう暗いのではないかと思っています。つまり、コンテンツを書籍という形態で販売するビジネスは、どんどん衰退するのではないかと考えているのです。

もちろん書籍の市場が短期間でゼロになることはないと思います。また一部のコンテンツは今後も長期にわたって、書籍という形態で流通するのが最適だとも考えています。しかし現在書籍の形で流通しているコンテンツの多くが、将来は書籍としては売れなくなる時代がくるような気がします。

なぜそう思うのか。そのひとつの理由は、書籍というものが、商品として不合理な存在だからです。

一般的な商品では多くの場合、購入者はその商品の「価値」をあるていど評価してから購入します。もちろん使ってみないと善し悪しがわからない商品も少なくありませんが、一般消費財はその商品をリピート購入するか否かを自分で判断できますし、耐久消費財でも機能やスペックなど、商品の中身を吟味できます。

しかし書籍の場合、その購入には常に「博打」の要素がつきまといます。購入した書籍の中身に価値があるかどうかは、結局のところ読んだ後でないと判断できないのです。しかもほとんどの書籍は、その価値が判断できた時点(つまり読了後)には、再度購入する必要はなくなっています。つまりユーザーがその価値を評価した時点で、その書籍の「商品としての価値」は失われているわけです。

だって一度読んだ本がいくら価値があるものでも、同じ本を2度、3度買うことってないでしょう?ひょっとしたらそういうことをする人もいるのかもしれないし、私の本棚にもなぜか同じ本が2冊あったりします。でも私の場合はリピート購入ではなくて、以前読んだことを忘れて買ってしまうんですよね。しかも面白くない本に限って記憶がなくなっている。バカバカしい限りです。

つまり書籍って、中身を吟味する前に買う必要があり、どんなに素晴らしいものでも1回しか消費できないという、とても不思議な商品だというわけです。

私自身、これまで購入した書籍の中で、アタリに巡り会えたのは1~2割といったところです。「もう一度じっくりと読み返してみよう」と思えたものは、1割にも満たないかもしれません。もちろん私はそれでも構わないと思っているので、懲りもせずに書籍を買い続けています。問題は「価値がある」と思えた一冊も、「なんだこれダメじゃん」と感じた一冊も、商品に対して支出する金額はそれほど変わらないということです。優れた本にも1回しか代金を支払わないし、ダメな本にも1回は代金を支払っている。これが一般消費財なら、リピート購入という方法で、提供者に利益を渡せるのですが、書籍ではそうはいかない。芝居や映画だって、面白いものは複数回見に行くことができます。でも書籍は原理的にそれができない。

このような特性は、市場原理が適切に働かない、という結果を生むような気がします。そもそも商品を購入するという行為は、その商品の価値を評価したという、一種の投票行為としての側面を持っています。一般的な商品はこの「投票行為としての購入行為」が成立するのですが、書籍の場合にはこれが成立しないのです。もちろん特定の作家や特定の出版社のファンになって、その人/会社の書籍をリピート購入するという方法もあります。私にも「この人の新刊が出たら必ず買う」という作家は何人かいます。でもやっぱり、購入が博打になるケースの方が圧倒的に多い。

最近は「書籍のタイトルによって売上が大きく左右される」という指摘もあります。これはいったい何を意味しているのか。よく考えれば「商品としての書籍」というものの本質、その不完全さが理解できます。「最近はつまらない本がベストセラーになっている」とか「本当に価値のある本が売れなくなっている」といった議論もあるようですが(そんな論説だか批評をどこかで聞いたような気がする。空耳かもしれませんが)、これは商品としての書籍の本質からすれば、当然の流れなのではないかと思うのです。

たぶん、愛蔵版のコミックスや美術書、装丁に凝った書籍などは、書籍という「マテリアル感」が重要なので、書籍として存在すべきだと思います。また一部の新書や文庫本のように「気軽に楽しむ」書籍のケースでも、ポータビリティの高い書籍は「暇つぶし」という役割を担うことができます。でもコンテンツそのものが価値である場合、特に知識や知恵(ナレッジ)の提供が目的の書籍の場合には、書籍という商品形態は難しくなっていくのではないか。それではこれらのコンテンツはどこに行くのか。たぶんネットなんでしょう。

もちろんベストセラーになる書籍はこれからもなくならないと思う。でも書籍の形態で流通するナレッジの裾野は、どんどん狭くなっていくような気がします。つまり書籍の世界は、ベストセラーを出せる限られた執筆者と、その執筆者を押さえた一部の出版社だけで構成される、狭いサークルになっていくのではないか。

すでに雑誌市場の縮小によって、執筆活動でメシを食う道はかなり狭くなっているはずです。パソコン雑誌が一気に減った時には、パソコンライターの多くが職を変えていきましたが、それと同じことが大規模に起こっているような気がします。執筆者として生計を立てる上で、雑誌の存在は極めて大きなものです。雑誌の市場が消失すれば、安定的な収入を得ることが難しくなり、執筆者の裾野も狭くなっていきます。このような周辺状況も「商品としての書籍」の世界に、大きなインパクトを与えそうです。

そもそも執筆者にとって、数千~数万部程度しか売れない書籍を書くことは、経済的な観点からみれば「そろばんが合わない」話なんです。実は私もこれまで専門書を3冊執筆していますが、費やした時間の長さを考えると、印税の時間単価なんてごくわずかです。コンビニでアルバイトしていた方が、間違いなく時給は高い。その程度のものです。まあ、売れない本を書いちゃったんだから、仕方ないんですけどね。でも書くべきことを持っている場合には、その知識なり情報なりを、何らかの形で発信したいというのは、人間の本能のような気がします。それにこれは私の偏見かもしれませんが、他の人にとって価値のある情報や知識を持っている人というのは、たいていの場合その分野でメシが食えているので、書籍出版でメシを食う必要はなかったりします。

だからこそカネにならなくても本を出したいという人が、これまでにも数多くいたわけです。そういう人はこれからも数多く出てくるでしょう。でも今はネットで簡単に情報や知識を発信できます。こちらの方が書籍出版よりも、はるかに低コストでリスクも少ない。とすれば出版だけではメシが食えない、あるいはその必要がない執筆者は、必然的にネットに流れていくことになるでしょう。

すでにネット上には様々なコンテンツがあります。あふれかえっているといってもいいと思う。しかもその中身は玉石混交で「石の方が圧倒的に多い」という指摘もあります。情報の絶対量が増えれば、石の比率が高まるのは仕方ありません。でも玉の量だって、確実に増えています。問題は数多くの玉が、絶対量では玉よりもはるかに多い(のかもしれない)石の中に埋もれてしまうということです。

この問題を解決できる手段があれば、ネットはナレッジの宝庫として、もっと価値のあるものになるような気がします。そして現在の書籍流通のかなりの部分を、ネットが代替する時代がやってくると思うのです。

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それでは書籍はどうなのか

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2008.09.11
前回、前々回と、雑誌と新聞がネットの登場に伴って、どのようなインパクトを受けたのかを考えてきました。正確にいうとネットのインパクトだけではないんですけどね。でもまあ、ネット登場以降の変化、ということで。

それでは書籍はどうなのでしょうか。ネットは書籍を代替できるのか。
現状のネットを見ると、これはまだ「難しいだろう」というのが私の見方です。

前々回書いたように、情報提供をメインコンテンツにした雑誌は、すでに急速な勢いで凋落しつつあります。書籍もすでにこの10年間で売上が約2000億円減少し、2007年の売上は9026億円だというデータがあります(http://www.jftc.go.jp/pressrelease/08.july/080724tenpu01.pdf)。雑誌ほどではありませんが、書籍も凋落傾向にあるわけです。

おそらく書籍でも、娯楽系のものは、今後もなんとか生き残ると思います。でも情報提供系のものは、売上が減少していくでしょう。特にリファレンス型の書籍はネットで代替可能です。例えば辞書とか用語集とか、プログラミング言語のリファレンスといった書籍は、もはや紙の書籍である必要はありません。これらはむしろ電子媒体の方が使い勝手がいいと思います。私自身も仕事柄、辞書や英和辞典、和英辞典、IT系の用語集などを使うことがありますが、ここ数年間は紙の辞書を手に取ったことがありません。英和・和英なら英辞郎で十分ですし、用語集ならWikipediaでおおまかなあたりを付けて、あとは関連ページをググルことで、それなりの情報にアクセスできます。

それでは情報提供系の書籍がまったく不要かというと、必ずしもそうではなかったりします。特定の概念や世界観を体系的に見せてくれる情報源としては、書籍が最も優れているからです。

世界観を体系的に見せることは、まだネットでは難しいと思います。ネット上の情報は断片的なものがほとんどだからです。いやいや、この言い方はちょっと違うかな? 体系的なコンテンツもあるのですが、ネットを介して見るとどうしても断片的に見えてしまう、といった方が正しいかもしれません。ときどき「ネットの情報は断片的で表面的」という指摘を聞く(見る)のですが、表面的かどうかはともかく、断片的である(ように見える)ことは、間違いないと感じています。

つまり「概念や世界観を体系的に見せる」という機能は、現在も書籍が圧倒的に優れていると思うのです。

実際私自身、ここ数ヶ月PHPのプログラミングをチョボチョボと進めていますが、PHPやMySQL、LAMP、セキュリティ、CSS等に関する書籍を、すでに20冊ほど購入しています。リファレンスはネットの方が便利なのですが、自分にとって新しい世界を短時間で理解するには、書籍が最もコストパフォーマンスが高いと思います。ちなみに雑誌はほとんど買っていません。正直に言って「役に立たない」からです。特集型の記事はボリュームの関係から深いところまで記述されていませんし、書いてある内容のほとんどは書籍でキャッチアップできます。連載型の記事は、断片的な情報しかないため、当座の役には立ちません。

最近新書が数多く発刊され、それぞれ結構売れているのも、新書が「読者にとって新しい世界の全体像を短時間で紹介する」ことが可能だからだと思います。ムック型の雑誌が目立つようになっているのも、同じ理由ではないでしょうか。「情報源」はネットで、「世界観」は書籍やムックでというのは、情報収集の定番になると思います。

それでは今後もネットは書籍を代替できないのか。これはネット上の情報を、今後どのように提示するかによって変わってくると思います。もしネット上の情報を、カテゴリー別等で体系化し、さらにコンテンツそのものの価値によって序列化できれば、状況は大きく変わるような気がします。ネットが「世界観」を伝達しやすいメディアになれば、書籍の売上低下はもっと勢いを付けることになるでしょう。

これから実際にどうなるかは、たぶん「神のみぞ知る」ということなのでしょうけどね。ネットは確かにまだいろいろな問題を抱えていますが、情報伝達やアーカイブを低コストで行えるという、非常に優れた特性をもっています。私個人としては、ぜひとも書籍に取って代わる能力を身につけて欲しいと思います。

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新聞は意外としぶとい

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2008.09.04
前回はネット利用の拡大に伴い「一部の雑誌の時代は終わった」というようなことを書いたのですが、以前から「ネットに代替される」と言われてきた新聞はどうなのでしょうか。私個人の意見を言わせてもらえれば、新聞は雑誌に比べて「けっこうしぶとい存在であり続ける」と思っています。

私はすでに雑誌の定期購読をほとんどしていませんが、新聞は2紙取って、ほぼ毎日読んでいます。取っているのは「読売新聞」と「日経新聞」。読売は子供の頃から読んでいたし、高校生の頃は読売の販売店で朝刊の配達もしていたので、個人的になじみがあるという理由です。日経新聞は、ビジネスの世界にいるなら、まあ当たり前の購読紙だといえるでしょう。

雑誌からの情報はネットで代替しているのに、なぜ新聞の情報はネットで代替していないのか。これはなかなか答えるのが難しい問いです。なぜなんだろう。うまく理由は説明できないのですが、継続的かつ網羅的に世の中の流れを追いかけるには、新聞はけっこう使える情報源だという気がするのです。それに情報をざっと頭にインプットするメディアとしても、新聞の形態は優れているような気がする。私の読み方はちょっと大雑把なのかもしれませんが、2紙にザッと目を通すのに、30分もあれば十分です。

つまり情報がシリアライズされておらず、平面上に展開されているのが、新聞のいい点なのではないか。ザザザっと目を動かすだけで、いろいろな見出しが目に入ります。これは目的なしに情報を得るのには最適です。私はアイディア出しをするときに、何でもいいからとりあえず大量の情報を頭に流し込む、ということをするのですが、このような目的にも役立ちます。

もちろん「ニュースを知る」だけならネットでもテレビでも構いません。話題性の高いニュースであれば、ブラウザーにRSSで配信されるニュースでも十分です。単に「話題に追いつく」というレベルでいいのであれば、新聞を読まなくてもまったくOK。でも新聞にはそれ以上の機能があるような気がするのです。

実際、新聞の発行部数は、この10年間で確かに減ってはいますが、雑誌のように「激減」という感じではないようです。新聞協会経営業務部が発表しているデータによれば、1997年の発行部数が5376万部なのに対し、2007年は5202万部。意外と減っていないのです。朝刊単独を見ると、1997年が3284万部だったのに、2007年は3417万部と逆に増えています。意外でしょう?

ちなみに元ネタはこちらです。→http://www.pressnet.or.jp/

「新聞は習慣性の高いメディアなので雑誌ほど急激に減らない」という議論もあると思うんです。でも朝刊が逆に伸びているのは、この指摘ではうまく説明できません。やっぱりあの形や編集手法が、ネットでは代替できない「なにものか」を作り出しているのではないでしょうか。

でも最近「読売新聞はもう読まなくていいかな」という気もしています。特に「メガ文字」になってから、あまり読むところがなくなったような感じ。メガ文字って「高齢者にも読みやすく」といった大義名分があるのだと思うのですが、私があれを初めて目にした時に感じたのは「これはうまいコスト削減策だ」ということでした。だって記事と広告の面積比はそのまま、記事の文字数が大幅に減っているんですから。文字数が減れば、その分だけ文章を書く労力は削減されます。当然これはコスト減につながります。

いやいや、文字が少なくても別にいいんですよ。読むだけの価値のある記述なら。文字数と内容の価値は、必ずしも比例するわけではないですからね。でも文字数が一定レベル以下になると、実は記述内容のレベルも低下する可能性が高いんです。

これは私自身も経験しています。記事形式でタイアップ広告を書く場合、雑誌2ページ相当のボリュームがある場合には、それなりに本腰を入れないと、なかなかうまくまとまりません。内容の濃さも、あるレベル以上にないと、読者を引っ張ることができないのです。しかし1ページ程度のボリュームの場合には、書くべき内容があまりない場合でも、けっこう何とかなってしまうんです。いや、手を抜いている、というわけではないんですよ。ほんとに。ほんとですってば。でもクライアントさんの話を聞いて「あんまり内容がないなあ」と思っても、もし1ページ構成なら「大丈夫、何とかなりますよ」って、軽く引き受けてしまいます。まあこちらも商売ですから。でもね、文字数があるレベル以下になると、小手先の技術だけでも文章ってできちゃうんですよ。これは文章を書く側も、書かせる側も、注意しなければならないポイントだと思いますよ。やたら長いだけの文章もどうかと思いますけどね。他人のことはいえないか。

まあ、そういうわけなのかどうかはわからないのですが、最近の読売新聞には「新聞を読んだなあ」という実感がありません。というか、読むに耐える記事が少なすぎます。ほとんどの記事はテレビやネットのニュースを軽く流すだけでも得られる内容だし、1面右下にあるコラムや社説も、なんだかなあ、という感じ。もともと読売は「そんなに“鋭い”新聞ではない」とは思いますが、以前はもうちょっとレベルが高かったような気がします。大規模な世代交代でもあったのかなあ。今では「コボちゃん」と日曜版の「あたしんち」のために、読売新聞を取っている感じになっています。

それにくらべて日経新聞は、経済や企業関係の記事が豊富なので(たとえそのほとんどがプレスリリースをベースにしているとしても)、それなりに読み応えがあります。インスパイアされることも少なくありません。株価欄なんかは「もうネットでデータを入手できる時代なんだから要らないよね~」と思っているのですが、他の紙面はけっこう読む価値あり、というのが私の評価です。

話が横道にそれてしまいました。要するに「新聞は意外としぶとい」というお話です。未来のことはわかりませんが、しばらくは滑空を続けるのではないかと思います。

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